縦横無尽または右往左往生命論
誰 太"郎

  目次
  その1:生命のヒエラルキー
  その2:染色体の話1
  その3:福島原発事故を考える―サボりぬいた揚句の緊急稿
  その4―福島原発事故を考える2
  その5―福島原発事故を考える3
矢印 その6:福島原発事故後のネット空間から拾った言葉について考える(2)
                ※その6以降はクリックするとPDFファイルが開きます。





その1:生命のヒエラルキー
2010/05/11

 私がこれから始めるお話は、生命にまつわることであることだけはたしかですが、話の展開、 あるいはその時の気分次第でどこに転がるかは自分でも予測がつきません。読み進んだ結果、「一貫性がない!」と怒る人もあるかも知れませんが、そこはご容赦のほど。 話の中のある言葉に、「そういえば!」という形で突然舵を切ってしまうこともあると思います。「縦横無尽または右往左往」とタイトルに振ったのはそういう事情からです。  

ヒト細胞1個分の染色体(光学顕微鏡像)
ヒト細胞1個分の染色体(光学顕微鏡像)

 私自身はこれまで、ヒトをはじめとした動物の細胞を培養し、そこから取り出した染色体の構造およびさまざまな要因によるその変化について「見て」調べることを主な仕事として続けてきました。当然のことながらいろいろな実験をし、必要と思われるさまざまな文献に目を通し、また多くの研究者とお話しする機会を持つことができました。そうした経験の中で、これは一人胸の中にしまっておくのはもったいないなと思えるようなこと、あるいは話にもいくつか出会いました。そんな世界を皆さんと共有できればと思います。 とはいえ、話の成り行き上「そんなの当たり前じゃないか」という話もあることと思います。また私の思い違いで大ウソを書いてしまうこともあるかも知れません。そんな場合には遠慮なく、しかしお手柔らかにツッコミを入れていただければ幸いです。

元気に増殖中の動物(マウス皮膚由来)細胞(光学顕微鏡像)
元気に増殖中の動物(マウス皮膚由来)細胞 (光学顕微鏡像)

 さてヒエラルキーでした。私達よりずっと古い世代の、その昔インテリと呼ばれたような人達の間では、好んで「ヒエラルヒー」とドイツ語風のつづりで表記されることも少なくなかったようです。もともとはローマカトリック教会の聖職者を頂点としたピラミッド組織をあらわす言葉だったそうですが、その後社会科学の用語として「階層制」あるいは「階級制」といった意味に用いられるようになり、自然科学の世界でも「階層構造」あるいは「階層性」といった訳語を充てて広く使われています。
 それでは「生命のヒエラルキー」と言った場合、具体的にはどのようなことがイメージできるでしょうか。身近なところで、まず私達個体の体を考えてみましょう。私達の体は、まず外見的には全身皮膚で覆われ、頭や手足があります。頭(顔)の表面には目鼻耳口があり、側面および後面から頂上にかけてはおおむね毛が生えていて、これを頭蓋骨を覆う皮膚が支えています。皮膚をめくる(痛いです)と中には骨に守られた脳が、また口の中には歯があり舌があります。 口からさらに胴体の中に入ってみると(入れません)、胃や腸、心臓、肝臓など、皆さんご存知の器官がいっぱい詰まっていますね。それらの器官はまた、上皮組織、結合組織、筋組織、といったさまざまな組織が複雑に入り組んで出来上がっています。その組織を構成するのはやはりご存知細胞です。その細胞を樹脂に埋め込み、これをガラスやダイヤモンドで出来た、とてつもなく鋭利なナイフで厚さ60-80nm(1 nm=1 mm/100万)位の非常に薄い切片(超薄切片)に切って透過型電子顕微鏡で観察すると、細胞の中には核、ミトコンドリア、ゴルジ体、リボソーム等々、皆さんが学校で学んだ(でいる)さまざまな構造体(細胞小器官)が見えてきます。そして例えば核の中には、細胞の分裂期にX字型あるいはペンチのような形に見える染色体がほどけた繊維(クロマチン)や核小体が詰まっています。このクロマチンを作っているのは、これもご存知DNA,RNAそして数百種類ものタンパク質(最近の研究では、ヒト細胞の染色体関連タンパク質は200種類以上あることがわかっています)などの分子です。他の細胞小器官もまた、タンパク質の他、糖類や脂質などさまざまな分子で構成されています。分子といえば言うまでもなく、これを構成するのは原子です。原子を作っているのは、陽子と中性子(水素原子にだけは中性子はなかったですね)の塊である原子核と核外電子、さらに陽子や中性子はクォークに分割でき、とこのあたりから先は終戦直後の湯川博士から最近の南部・小林・益川3博士に連なる、キラ星のごとく並ぶ日本人ノーベル賞受賞者達が大活躍した、しかし残念ながら私の理解能力をはるかに超える素粒子の世界ですね。

 さて、これまで書いた文章の中に出てきた赤字の言葉を小さい順に、つまり出てきた順序を逆にたどって書いてみましょう。

素粒子

原子

分子

細胞小器官

細胞

組織

器官

個体

 とこのようになりますね。これが生命のヒエラルキーという考え方の一つの典型といってよいでしょう。インターネットの百科事典「Wikipedia」には、「階層構造」の解説として「ある要素が複数集まることでひとつのユニット(集合体)を形成し、そのユニットが複数集まることでさらに大きなひとつの大ユニットを形成し、その大ユニットが、、、、という構造」という記述がありますが、上の図がこの概念によく当てはまることがわかります。このヒエラルキー、実は図の個々の項目についても矢印で下る前、すなわち脳など器官の構造、あるいは細胞の中のある構造体―例えば染色体―やこれを構成する分子(核酸やタンパク質)などで成立するのですが、その具体例については後日またご紹介します。

 ところで上の図で個体から先は生物集団の世界になり、種→属→科→目→綱→門→界、という、いわゆる系統分類学のヒエラルキーになりますが、通常は、ある生物についてはこの逆の順に表記します。例えば我々ヒトについては動物界・脊索動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・ヒト種、と下ってくるわけです。実はこの途中に「亜門」とか「亜目」といったさらに詳細な分類項目が存在しますので、興味のある方は「ヒト、分類」というキーワードで検索してみてください。 なお上の図を、「生命に特有」という観点でみると、これは分子までということになるでしょう。つまり原子、ましてや素粒子まで遡ってしまうと「生命に特有」というものはなくなってしまいます。

染色体からほどけ出したDNAのネットワーク(透過電子顕微鏡像)
染色体からほどけ出したDNAのネットワーク(透過電子顕微鏡像)

 最近、新聞やテレビなどで、例えばある種のがんや糖尿病、あるいは高血圧といった疾患に関わる遺伝子がみつかった、などというニュースに接することが少なくありませんね。この場合、見つかったのは遺伝子(その本体はDNA=核酸分子)ですが、この遺伝子が活動する(発現する)ことがどのような分子(タンパク質)の生産や増加につながり、それらの分子が他のどんな分子と反応することにより、細胞のどんな構造や機能の変化として現れ・・・最終的に個体の疾患とどう結び付くのか、というまさにヒエラルキーに沿った研究が進められた結果、そのような疾患の治療法が確立したり改善することにつながるわけです。 我々が日頃接する生命関連のニュース、「ヒエラルキー」という視点から眺めることもなかなか興味深いように思いますがいかがでしょう。 今回はここまでにします。

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その2:染色体の話1
2010/08/19

はじめに
 いやはや暑いですね。体質(体型も!)がペンギンみたいな私にはつらい日々です。
 さて前回(それが初回だったのですが)書いてから随分時間が経ってしまいました。「そろそろ次書かなくちゃ・・・」と思いつつなかなか腰が上がらず、ご無沙汰をしてしまいました。そろそろ「1回書いたらタネが尽きちゃったんじゃないの?」と言われそうですので続編いきます。

 前回は生命体を素粒子から個体、さらに集団にいたる各階層(ヒエラルキー)で考えるというテーマで書きました。今回はその中から、細胞の中にある構造体として「染色体」を採り上げることにします。何といってもこれは、個体の生命活動を司る司令塔としての遺伝子(の本体であるDNA)とタンパク質のカタマリとしての意味もさることながら、その形が美しい(と感じる人が、このギョーカイに生息する人の間には少なくないようです)一方で、これがどのように形作られる(構築される)のかが未だによくわかっていない点でも興味が尽きないからです。

染色体のプロフィール
 さてそれではこの染色体、ご存知の方も多いと思われますが、そのプロフィールについてざっとおさらいしておきます。まずこれがモノとしてどんな成り立ちかというと、下の表のようになります。

染色体の化学組成の例

 これはヒト由来のヒーラ(HeLa)細胞(→コラム参照)の染色体の化学組成の例です。無論生物の種により、この組成は若干異なりますが、少なくともわれわれ人間を含む真核生物(遺伝子が細胞内の「核」の中に収められている生物−これに対して細菌などの微生物をはじめ、核を持たずにむきだしのままの遺伝子が細胞内に存在(核様体といいます)している生物を原核生物といいます)についてはほぼ近い比率と考えてよろしいでしょう。
 「ヒストン」とは染色体を構成する繊維(クロマチン)の構築に関わる最も重要なタンパク質で、「非ヒストン」はヒストン以外のやはりタンパク質です。「非ヒストン」はヒトの細胞で200種類位あることが最近の研究で明らかになり、その中にはヒストンと同様、 染色体の構造構築に大きく寄与するもの(コンデンシン、コヒーシン、シュゴシン=守護神、等々)も知られ、その他のタンパク質についてもそれが一体何をしているのかについて関心が集まり、その機能を明らかにする研究が進められていますが、このあたりの事情は次回以降ということで・・・。

            コラム−HeLa細胞−
1951年、不幸にも子宮頚(けい)がんのため31歳という若さで亡くなったHenrietta Lacks(これが細胞名の由来)さんというアメリカ人女性患者の病巣部分から分離され、ヒト由来細胞として長期培養に世界で初めて成功した細胞です。その後売買や譲渡を通じて世界中に拡散し、半世紀以上も培養され続けてさまざまな研究の材料として現在でも用いられています。驚くべきことに、このこと(培養および拡散利用)は当初、患者ご本人はもとより家族にも知らされていませんでした。そして、患者が亡くなったずっと後になってそれを知った家族は当然ながら怒り、人間の尊厳やプライバシー、人体に由来するものを“商品”として扱ったことなど、倫理上の問題として論争を呼びました。しかし、ことの善悪をよそに、この細胞はその後も世界中で増え続け、医学・生物学の発展に大きく寄与してきたこともまた事実です。


        ちょっと休憩
八島湿原(長野県)
八島湿原(長野県)

 さて次は形です。ご存知の方は染色体と聞いて「ああ、あれね」と、X字型やペンチ型、はたまた“やっとこ(なんて道具、ご存知ですか?)”型の姿を思い浮かべるでしょう。前回も出しましたが、もう一度写真で見てみましょう。

分裂期の染色体

 これでしたね。これはその昔、私の職場の同僚のリンパ球から得た分裂期の染色体です。いま“分裂期の”と言いましたが、実は染色体がこのような形に見えるのは細胞が分裂する時だけなのです。例えばヒトの細胞(で分裂するもの)は1日に1回位のペースで分裂する(組織に刺激があった時にしか分裂しない、あるいはまったく分裂しない細胞もあります)のですが、分裂期はそのうちせいぜい1時間位です。通常は分裂を止める薬品を培養液に加え、この時期の細胞の比率を増やして標本を作ると上のような像が簡単に見つかります。細胞分裂後の染色体はこの後ほどけてそれぞれの細胞の核内に分散し、顕微鏡で観察しても内部の構造はよくわからない(よく見ると微妙に濃淡はありますが)核が染まって見えるだけですが、このあたりも次回にじっくりご説明しましょう。
 「プロフィール」の最後に1本の染色体の非常に大雑把な構造の成り立ちをポンチ絵で示します。

分裂期の染色体

 テロメアは染色体のいわば帽子で、染色体同志がやたらとくっつきあわないようにする、ひいてはそれぞれの染色体の形を安定に保つためのユニットです。長腕、短腕は読んで字の如しで、この中に数多くの遺伝情報が隠されています。セントロメアはくびれの位置で、ここにある動原体に、細胞分裂時に2つに分かれた染色体を引っ張っていく微小管が結合します。
 無論これらにはさらに細かい構造があるのですが、プロフィールとしてはこのあたりにしておきましょう。
 そしてプロフィールに引き続き、今回は染色体の“姿”の持つ意味−特に私達の健康との関わりについて考えてみまたいと思います。

染色体と健康について
 私達個人個人の染色体像には、実は医学上重要な意味が隠されています。それを抽出するために、上のような写真を撮ってから先がちょっと面倒な作業になります。何をするかというと・・・まず神経衰弱です。神経衰弱? そう、あのトランプのゲームと同じことをするのです。そもそもわれわれの体は、言うまでもなくもともとは1個の受精卵からスタートし、分裂を重ねながら徐々に異なった性質の細胞に分かれてゆき(これを「分化」といいます)各部位が出来上がった結果存在するものです。そしてその受精卵には、受精前の雌雄の生殖細胞(卵および精子)のそれぞれに含まれる染色体のセット(これがゲノム)が2組入ることになり、その後発生・分化の結果できる生殖細胞以外のすべての細胞(「体細胞」といいます)は受精卵と同じ2組のゲノムを持っています(生殖細胞になる細胞はその後、「減数分裂」という生殖細胞特有の分裂様式により、ゲノムの量は体細胞の半分の1組だけになります)。ですから上の写真で1本1本の染色体をすべて鋏で切り離すと、両親に由来する、大きさおよびくびれ(セントロメアですね)の位置が等しいペアが見つかるはずです。唯一異なる2本が残ったら、その細胞の主である個体は男性(オス)です。つまり、これもよく知られていることですが、ヒト細胞の46本の染色体は22対の「常染色体」と呼ばれるペア+1対の同じまたは異なるペア(異なる場合をペアと言っていいのかどうか・・・とにかくこれが雌雄を決める「性染色体」)、という図が出来上がります。

神経衰弱?

 こういうわけですね。この例の場合は最後に残った2本が異なるので男性、これがXXと同じ組み合わせなら女性というわけです。

 さて、問題はこんなことをして一体何がわかるのか?です。重要なのは、この組み合わせが「ヒト」という種であれば民族・人種を問わず万国共通だということなのです。これぞ元祖グローバル・スタンダード(世界標準)。ちなみに染色体の数・大きさ・形の組み合わせ(「核型」といいます)は、例外もありますが原則として生物の「種」により一定です。そして少なくともヒトに関し、この標準からはずれた形、あるいは数の染色体が見られた場合、これを「染色体異常」と認定することが国際的な約束事になっています。例えばダウン症の患者は21番目のペアのところが1本多い3本、つまり全体で47本の染色体を持っています。
 ダウン症の場合は「数の異常」ですが、下の写真の例のように形の異常も数多く知られています。

放射線で誘発した染色体の形の異常
放射線で誘発した染色体の形の異常
(二動原体型染色体−中央右上、および断片−左下:矢印)

 そして数にしろ、形にしろ、このような染色体異常は、ダウン症をはじめとするさまざまな遺伝病やがん化した細胞、さらには大量の放射線や遺伝毒性のある化学物質にさらされた個体の細胞にも高い確率で見られます。赤ちゃんが生まれる前の診断(出生前診断)項目の一つに、羊水細胞(胎児からはがれ、羊水中に漂っている細胞)の「染色体検査」がしばしば含まれるのは、染色体異常に関連する先天性異常の有無のチェックのためであり、それが可能なのは、その比較基準として上に述べた「グローバル・スタンダード」が存在するからなのです。
 さてしかし・・・2枚上の写真に見るように、それぞれのペアは「本当にペアなのか?」と疑わしい、似たような大きさ、くびれの位置のものも少なくありません。
 その精度を格段に上げる方法が、おもに1970年代を中心に開発された分染法(バンド分染法)という、特殊な染色法で、下の写真のように各染色体に「染まる―染まらない」の縞模様(バンド)を浮き上がらせる方法です。

バンド分染法を施した染色体
バンド分染法を施した染色体
(微生物管理機構および前田 徹 北里大学名誉教授の好意ある許可を得て同機構HPより転載)

  ペア同士のバンドの位置は同じなので、これならすぐに相手が見つかります。また染色体の一部が何らかの原因でちぎれ、他の染色体につながる(転座)あるいは上下が逆さになってもとの染色体につながる(逆位)、あるいはなくなる(欠失)などというタイプの異常もあるのですが、これらは均一に染色された試料ではなかなか見つけにくく、この方法の開発によってかなりそれが容易になりました。

 この方法の確立が大きくモノを言った例を一つご紹介しましょう。フィラデルフィア染色体です。フィラデルフィア?そう、1960年にこの染色体を発見した2人のアメリカ人医師、NowellとHungerfordが所属していたペンシルベニア大学の所在地にちなんで付けられた名前です。この染色体は、20万人に1人位がかかる慢性骨髄性白血病の患者さんのほとんど(90%以上)にみられるので、この病気の診断の強力な目印として現在でも活用されています。
 発見された当時から10年ほどは、22番目の染色体が短いということだけしかわかっておらず、この病気は22番染色体の一部の欠失の結果ではないかと考えられていたのですが、1973年、この染色体にバンド分染法を施したRowleyにより、9番と22番の染色体の一部がそれぞれ切れて入れ替わった(相互転座した)ものだとわかったのです。そしてさらに後、そのそれぞれの切れ端の部分にあった遺伝子同士が融合して異常なタンパク質を作り、これが細胞の暴走的な増殖(つまりがん化)をもたらした、というメカニズムが付きとめられたというわけです。

 さてさらに最近では、染色法の発達とコンピュータの威力により、各番号の染色体を全部ちがう色で染め分けるなどという離れ業が可能になり、特にがんとも関わりの強い「転座」をはじめとした染色体異常の解析に威力を発揮しています。

 少々長くなってしまいましたので今回はこのくらいにし、次回は染色体の形その2として、よりミクロな構造について迫りたいと思います。 最後に暑中(いや、暦の上ではもう残暑ですね)お見舞いを兼ね、もう1枚写真を添えて終わります。猛暑の折、ご自愛のほど。

慶良間の海(渡嘉敷島:沖縄)
慶良間の海(渡嘉敷島:沖縄)

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その3:福島原発事故を考える―サボりぬいた揚句の緊急稿
2011/04/20

 皆さん済みません。
またまた長くサボリ続け、こりゃいかんと第3回をほぼ書き上げていながら、 私の職場の引っ越し騒ぎでこれも中断している間にあの大震災が起きてしまいました。 日々接する現地の惨状を報じるニュースに胸塞がる思いがするのは皆さんも同じではないでしょうか。 失われてしまった数多くの尊い命に改めて哀悼の意を表すると共に、 命は助かったものの筆舌に尽くしがたい苦難を今なお舐めておられる方々には、一日も早く安寧な日常が戻ることを祈るばかりです。

 さて今回“緊急稿”としたのには訳があります。実は私の職場は引っ越し前、つまりついこの前まで放射線の専門機関でした。 私も生物屋の立場から多少は放射線に関わってきた身として、今回の津波で冷却機能を失って燃料が水中からむき出しになり、 水素爆発を起こした福島原発の成り行きには大いなる関心と懸念を持たざるを得ません。 そこでこの原発から今も放出されている放射性物質(放射能)と、そこから出てくる放射線の健康への影響について、 少し考えることを今回のテーマにしようと思います。放射線の、人体を含む生物への影響については、 実はシリーズの後半で染色体に絡めてお話しようと思っていたのですが、放射線がどのように、あるいはどのくらいコワイのか、 今こそ皆さんが知りたいことではないかと思いますので予定を変更し、その話を少し“前倒し”して採り上げようと思います。 まずはその話をなるべくわかりやすくするために、いくつかの基本的なことがらについて整理したいと思いますので、 少しだけ(と言いながら結構長いですが)お付き合いのほど。

1.放射能と放射線
 もともと意味の違うこの2つの言葉が、今でもマスコミでは混同されて使われることが少なくありません。 放射が漏れたかどうかということを問題にする場合に「放射が漏れた」と表現されているのを 聞いたことはありませんか?
 放射線と放射能…くどいようですが意味が違います。よく使われるたとえですが、 この2つの言葉は「電球と光」の関係になぞらえられます。光を出す能力、あるいはその能力を持っているもの (電球)が放射能、出てくる光そのものが放射線というわけです。ある施設から放射が漏れた、 という場合はその施設の内側にある放射または放射線発生装置から外へ、放射が漏れた、という場合には施設の外の、 その放射が漏れ広がった所から、それぞれ放射が出ることになります。

2.放射能濃度と被ばく線量について
 さらに皆さんが新聞やテレビを見ていて混乱するのが、放射能・放射線の単位ではないでしょうか。 ○○ベクレルやら××マイクロシーベルトなどと言われても、それらが何を意味し、 個々の数値が一体危ないのかそうでもないのか、なかなか実感としてピンとこないのではないでしょうか。 次のように覚えてください。

 ベクレル(Bq;放射能の強さの単位):原子核が1秒間に1個壊れて放射線を出すことことに相当。 例えば1kgのホウレンソウに1000ベクレルの放射性のヨウ素131が検出されたとすると、このホウレンソウ1kgあたり、 1秒間に1000個のヨウ素131が(ガンマ線及びベータ線を出しながら)壊れていることになります。 ついでながら壊れたヨウ素131は、もうそれ以上は壊れない安定なキセノン131に変化します。

 シーベルト(Sv;被ばく線量の単位):特に放射線の種類や被ばくのしかた(体全体か一部か)によらずに 人体への影響の程度を共通の尺度で表現できる線量の単位、ということになるのですが、これでは何だかよくわかりませんね。 ご説明します。なじみのない方には少々つらいかも知れませんがご辛抱のほど。 まず被ばく線量の単位としてグレイ(Gy;吸収線量)という言い方があります。 1Gyとは「物質1kgあたり1ジュール(約0.24カロリー)のエネルギー吸収に相当する放射線の量」と定義されています。 いきなりですが、人間はX線またはγ(ガンマ)線を全身にいちどきに4Gyほど被ばくすると、 その半数の人が2ヵ月以内に亡くなってしまいます。ところがこの線量を熱量に換算すると、 せいぜい熱いコーヒーを1すすりした程度にすぎません。 ちょっとビックリですね。
 さて上で「X線またはγ線」と書きましたが、 放射線にはいろいろな種類があり、その種類により、同じ量(線量)の放射線に被ばくしても実は影響がまったく異なります。 そしてその種類ですが、これはまず電磁波(光や電波もそうです)と粒子線とに大別されます。電磁波にはX線やγ線、 粒子線にはα(アルファ)線(=ヘリウムの原子核)、β(ベータ)線(=高速で運動する電子)、 陽子線、中性子線、重粒子(イオン)線などがあります。影響の強さですが、 上に出てきたX線とγ線は線量が同じならその影響もほぼ同じです。そこでこれを1とした場合、 同じ線量で他の種類の放射線の影響はどうでしょう?答は次の通りです。α線:20、β線:ほぼ1、陽子線:2、 中性子線:エネルギーの大きさにより5−20、重粒子線:20、となります。ここでシーベルト(Sv)が登場します。 つまりX線とγ線で1Gy=1Svとすると、α線、β線、陽子線、中性子線、重粒子線はそれぞれ20, 1, 5, 5-20, 20 Svというわけです。 これがSvは放射線の種類によらない共通の尺度としての被ばく線量として使える、という理由です。 あとm(ミリ)SvはSvの1000分の1、μ(マイクロ)Svならそのまた1000分の1を意味します。

 ところで上に述べた関係、お酒の種類と酔っぱらい方の関係に似ていると言えなくもありません。 つまり(あくまでお酒がまあキライではない、という人の話ですが)ビールを1リットル飲んでも、 多くの人は翌日までには普通に仕事ができる程度に回復しますが、 ウイスキーを同じ量飲んだらほとんどの人は翌日使い物にならないでしょう…って、 ちょっとたとえが悪すぎましたね( 未成年の方は絶対に“実験”してはなりません)。
 さてもう一つ、ニュースを聞いていて何となく皆さんがモヤモヤしているのではないかと思われる問題を採り上げます。
皆さんはテレビや新聞で、「ホウレンソウから食品衛生法の暫定基準値を超える放射能が検出された」というニュースは これまでも何度かお聞きになっているでしょう。そこで「そういうものを食べて○○Bqの放射能を摂取したとすると、 どの位の線量を被ばくすることになるのか?」ということが気になりますね。これはつまり、 「BqからSvへの換算はできるのか?」という言葉に置き換えることができます。で、どうかといえば、 これはできることになっています。今回のような事故で放出される可能性のある放射能(放射性核種)を、 吸入摂取した場合と経口摂取した場合のそれぞれ1ベクレルあたりの線量(Sv)について、 国際放射線防護委員会(ICRP)という国際機関が核種ごとにその数値(線量換算係数または実効線量係数)を定め、 表として提示しています。
(http://www.remnet.jp/lecture/b05_01/4_1.html)。
 それによりますと、例えばヨウ素131については1Bqあたり経口摂取で1億分の2.2Svです。 そこで仮に放射性ヨウ素の野菜に関する暫定基準値である1kgあたり2000Bqのヨウ素131で汚染されたホウレンソウを 100g食べたとします。すると摂取するヨウ素131の量は2000×100/1000=200Bq。 これによる被ばく線量は200×2.2/1億=100万分の4.4Sv=1000分の4.4 mSv(ミリシーベルト)=4.4μSv(マイクロシーベルト) となります。無論私達が毎日食べるのはホウレンソウだけでなく、他の野菜も米もあります。 それらがすべて汚染されたまま洗わずに食べればその数値はすべて加算され、総線量はもっと高くなるのですが、 汚染は1〜2回の水洗で半分以下に落ちるという報告もあります (猪越幸雄他;「チェルノブイリ原子力発電所事故に係る環境放射能測定結果とひばく線量評価」 東京都立アイソトープ総合研究所研究報告 昭和63年2月 第5号別冊)。
 また今回のような事故がなくても、つまり普通に生活していても私達日本人は大地・宇宙・食物などから世界平均で 一人あたり年に1500μSv程度(世界平均では約2400μSv)の自然放射線に被ばくしています。 さらに日本人はこれに加え、主に病気の診断を目的とした放射線にやはり一人あたり、年に2300μSv(これはダントツ世界一) 程度被ばくしています。無論必要のない放射線を余分に浴びることは避けるべきですが、 これら(自然および診断放射線)の線量に比べればずっと少ない(原発周辺の高汚染地域は別)放射線に過剰に反応し、 恐怖を募らせてパニックに陥り、ストレスを溜めることの方が健康には(社会にも!)マイナスではないかと私には思えますが、 皆さんはいかがですか。

3.何を恐れるか?―放射線の影響
 原爆、第五福竜丸、東海村臨界事故という事件に遭遇してきた日本人は、特に放射線に強いマイナス・イメージを抱き、 放射線・放射能に関わる事故のあった県の農産物というだけで、まったく汚染とは無縁のものであっても風評で これを徹底的に退けるということはこれまでもありました。
 しかしここでちょっと考えてみましょう。放射線って一体何が怖いのでしょうか。 被ばくするとどんなことが私達の体に起きるのでしょうか。昔からよく聞かれる言葉は「吐く」「毛が抜ける」「ガンになる」 「奇形児が生まれる」「死んでしまう」等々で、皆さんもこのうちのいくつかはどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。 実はこれらはすべて真実です。しかし問題はどのくらいの線量を被ばくすればこのようなことが起きるのか、なのです。 また、このようなことが起きるか起きないかは、全身が均等に被ばくするか体の一部が被ばくするか、によっても違ってきます。 下の図の通りです。

放射線の強さと影響

 胎児はさすがに放射線に対する感受性が高く、100mSvを超えると奇形が現れることがあります。 成人では250mSv位から臨床的に観察可能な影響(染色体異常や精子減少)が現れ始めます。 この「○○Svを超えるとある症状が現れる」ということは、逆にいえば「その線量より低ければその症状は現れない」 ことでもあり、その線量のことを「しきい線量」とよびます。 この「しきい線量」はとても重要な概念ですので覚えておいてください。
 さて上の図には、放射線の影響で非常に恐れられる「がん」がどこにも書かれていません。なぜでしょうか?
 それはがんには「しきい線量」がない、と仮定されているからなのです。仮定されている?実は原爆被爆者の調査で、 血液のがんである白血病については200mSv以上、それ以外のがん(固形がんといいます)では約100mSv以上でほぼ直線的 (白血病については、厳密には低い方で直線、高い方で二次曲線的)に増加することが分かっているので、 増加したという確実な証拠のないそれ以下の線量でも恐らく線量の増加に伴って直線的に増加するであろうと安全側にたって 「仮定」されているわけです。しかし繰り返しますが実際のところ、この程度の線量(100mSv)以下で本当に がんが増えるのかどうかはよくわかっていません。
 また日本を含む世界では、自然放射線のレベルが他の地域よりも2〜6倍程度高い地域(日本の鳥取県三朝温泉、 中国の広東省陽紅県、インドのガラパリ、インドのケララ地方など)が存在しますが、 それらの地域で長年生活する人々の健康調査をしても、特にがんが統計的に多いという結果は得られていません。

 以上のようなことがわかってみると、原発周辺あるいは風下の放射線量の高い地域は別として、 東京近辺に暮らす人々が子どもさんの転校も含めてすぐに遠距離に避難する、 あるいは日本にいた外国の人びとが大急ぎで帰国するというのは、(気持はよくわかりますが) 少なくとも今の時点ではいささか過剰な反応とはいえないでしょうか。 さらに心細い思いを抱き、福島から東京にやむなく転校してきた児童に対し、 東京の児童が「放射能がうつる」などという心ない言葉を浴びせてその児童を深く傷つけてしまうのも、 大人のこうした過剰反応と無縁ではないような気がするのですがいかがでしょう。

 今回はこの位にし、この続きは(今度こそあまり間を措かずに)もう一度書きます。

 犠牲者の方々への鎮魂を込め、1枚だけ写真を添えさせていただきます。  合掌
コブシの花

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その4―福島原発事故を考える2
2011/06/22

 前回「今度こそあまり間を措かずに書く」などとお約束しておきながら、やはりまたかなり間が空いてしまいました。 夜パソコンを開き、5分後には画面を前に深々と頭(こうべ)を垂れ、気が付いたら日付が変わってた、 という事態にいたって「あ、もう寝なくちゃ」なんてことを繰り返していました。 かくして情けなくも今回もまた、心ならずもお詫び(もしくは土下座)からスタートです。

 さて東日本大震災とこれが引き金になって発生した、我が国のみならず国際的にも歴史に残る原子炉トラブルとなった 福島原発事故を受け、当初の予定を変更して前回は緊急稿としてこの問題について採り上げました。
 放射能と放射線の意味の違い、放射線の線量単位に関する解説と種類(線質)による影響の違い、 放射能濃度と被ばく線量の関係、線量による影響の違い、などについてお話ししたのですが、今回も引き続き、 この問題に関連すると思われることがらについて、思いつくままに述べてみたいと思います。

1.低線量放射線によるがんのリスク
 まず多くの皆さんは、今回の事故後にテレビで盛んに耳にした「人体にただちに影響のあるレベルではない」 という言葉に違和感を持たれたのではないでしょうか。今回の事故の現場である福島県の人びとが被ばくした(ている) 放射線の線量が、本当に問題とするに値しない“低”線量なのか?という疑問をお持ちではないでしょうか。

 4月26日、文部科学省は地震のあった今年3月11日から来年3月11日までの1年間の、 福島県の各連続観測地点における放射線の積算線量の推定値を発表しました。「1日8時間は屋外、16時間は木造家屋内で生活」、 「家屋内の線量は屋外の60%」、「今後は4月22日時点の測定値が持続する」など、個人差が大きい、 あるいは本当に妥当なのかなど疑問符のつくいくつかの仮定のもとに推定された数値なのですが、 とりあえずそれによりますと、福島原発の24〜31km北西にある浪江町の3地点でそれぞれ 235.4、186.6、110.2mSv(ミリシーベルト)、それ以外の60地点では0.8〜56.2mSvと100mSvを下回っています。

 さてそこで「低線量」とは一体どれくらいの線量かというと、これは一般には原爆被爆者の疫学調査から確実に がんの増加が認められた下限の線量である100〜200mSv以下とされ、前回も登場した「国際放射線防護委員会(ICRP)」や 「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)」は低線量の定義として「200mGy(ミリグレイ)以下」としています (ここでは吸収線量であるGyで表示されていますが、これは中性子やα線など、 同じ線量でも生物影響の非常に大きな放射線以外―つまりγ線、X線およびβ線ならばSvと読み替えて差し支えありません)。 ちなみに一度に100mSvの被ばくをすると0.5%程度のがんが増加すると見込まれています。 現在日本人のおよそ二人に一人が、放射線とは無関係に生涯のどこかでがんに罹患します(がんによる死亡は3人に1人)ので、 仮に1000人の人を考えた場合、この線量の被ばくがなければこのうち約500人が、1000人すべてが100mSv被ばくしたとすると、 505人程度ががんに罹ることになります。

 ともあれ上に挙げた浪江町の3地点の線量は、これを一度に浴びればがんに罹患するリスクのあるレベルに達する線量ですが、 それが「1年間の積算」ということですから、いわば「じわじわと浴びる」ということであり、 原爆のようにいちどきに被ばくした場合と単純にそのリスクの比較をすることはできません。
 この「いちどきに浴びる」か「じわじわと浴びる」か、つまり「浴び方」はなかなか重要で、 「線量率=単位時間あたりの線量;mSv/時間などと表現」という概念として重視されます。 
 一般にトータルの被ばく線量が同じならば、線量率が低いほど影響も小さいことがわかっていて、 これを“線量率効果”とよびます。ただし例外としては、たとえば20世紀半ば、 欧米のウラン鉱山労働者がラジウム226の崩壊生成物であるガス(希ガス)であるラドン222を長期間吸入した結果、 肺がんが多発した事例では、逆に線量率が低い方がリスクが高かったというケースもあることはあり、 これは“逆線量率効果”とよばれています。なお、線量についてはこれが高い方がやはりリスクも高かったことを 付け加えておきます。
 ともかく上の3地点以外ではいわゆる低線量であって、仮にその線量をいちどきに浴びたとしても、 がんが増加したことを統計的に立証することが困難なレベルの線量―ということになるでしょう。

 もう一点、これも多くの方にとって気になることですが、原爆の場合は主に体外からの被ばく(外部被ばく)であったのに対し、 今回の福島のケースでは放射性塵の吸入(の他に飲食もありうるのですが、こちらは水や農作物、 牛乳などの汚染検査をして市場に出る前にほぼ食い止められているとみてよいでしょう。 チェルノブイリではこれを怠ったため、ヨウ素131で汚染された牛乳を飲んだ乳児を含む当時18歳以下の子供達の間に、 その後約6000人の甲状腺がんの患者が発生したことがUNSCEARの2008年報告書に書かれています。) を通じて摂取した体内の放射性物質による被ばく(内部被ばく)の寄与分が多くなるという違いがあるのですが、 今のところ、ある臓器の被ばく線量が同じならば、そのリスクは外部被ばくか内部被ばくかに拘わらず同じであると考えられています。 ですから内部被ばくの場合は、体内に放射性物質を取り込んだ後、これが代謝を通じた排泄や半減期で減ってゆく分を考慮して、 トータルでその影響の及ぶ(放射性物質の種類―放出する放射線の種類―によって異なります) 臓器がどれだけの被ばく線量になるかを考えればよいことになります。
 とはいえこの「内部被ばく線量をきちんと決める」ことはそんなに簡単ではありません。 取り込まれた放射性物質とそれに由来する放射線の種類、放射線の出る方向や体内分布、 臓器の大きさなど様々な変動要因が関わるので、実はとてつもなく難しいといえます。 それでも前回も登場した国際放射線防護委員会(ICRP)は、放射性物質の種類(核種)ごとに 「この核種を1ベクレル吸入または経口摂取したらこれだけの被ばく線量になる」という 「実効線量係数」を数値として勧告( http://www.remnet.jp/lecture/b05_01/4_1.html)し、 内部被ばく線量評価のめやすを提示しています。 興味のある方は上のURLでご覧ください。

 ところでチェルノブイリ原発事故や今回の事故を通じてよく知られるようになったように、 ヨウ素131が甲状腺に蓄積しやすいのと同様、元素によっては特定の臓器・組織に蓄積しやすいものが知られています。 古くはまず1920年代に、夜光時計(なんて若い世代の方はご存知でしょうか)の文字盤に β放射体である放射性のラジウム226および228(カルシウムと置き換わるため、骨に沈着します)を含む蛍光塗料を、 筆を“舐めながら―筆の先を揃えるために”塗る作業をしていた女工さん(なんて言葉ももはや死語ですね― 一般には“ダイヤルペインター”という名で通っています)が長年経口摂取し続けた結果、 彼女たちの間に顎の骨がボロボロになる奇病(“ラジウム顎”と当時は呼ばれたようです)や骨肉腫が多発した例、 また第二次世界大戦中のドイツおよび日本などで、α放射体であるトリウム232(肝臓や脾臓、骨髄に沈着)を 造影剤(通称トロトラスト)として用いていたため、この診断を受けた患者の間に肝硬変や肝臓がん、 白血病などが多発した例が有名です。
 これらの事例に共通しているのは、いずれも全身均等被ばくではなく、「局所に大線量被ばくをした」、という事実です。

 今回の事故後、原発周辺で微量検出されたβ放射体であるストロンチウム90は、カルシウムと置き換わって骨に沈着し、 骨髄(すべての血液細胞のもとになる細胞を生み出す組織)を含む骨組織を長期間(半減期約29年)照射し続けます。 その結果、骨腫瘍や白血病のリスク増加につながることから、この元素はいわば “札付き”のアブナイ核分裂生成物として マークされています。そしてこの核種はγ線を出さないので化学分離以外に検出手段がなく、 またその分離にはおそろしく手間がかかるというやっかい者です。 すでに海に流されてしまった高濃度汚染水の中にこれが大量に含まれていて、 海洋生物が汚染されていたなどということがないことを祈るばかりです。

 さて前回(緊急稿)も含め、これまで書いてきたことを振り返ってみると、 今回の事故で被ばくするレベルの線量で考えるべき影響としては、どうやら「がん」に絞り込まれるといってよさそうです。 とはいえ、繰り返しますがおよそ100mSv以下の線量では、少な くとも統計的にはがんの増加が確認されていませんから、今回の事故によるがんの増加は、 一部の高汚染地域に住み続ける人が数多くいない限り、やはり検出は困難ではないでしょうか。 ただ、がん(および遺伝的影響)は、確率的な事象と考えられていますから、線量がゼロでない限り、 統計的には検出されなくても「増える可能性はある」というのがICRPの立場だったですね。 この5月に原子力安全委員会事務局が発表しているコメントにも「100mSv以下の被ばく線量による確率的影響の 存在は見込まれるものの不確かさがある」とビミョーな言い回しで書いてありました。

 そもそもがんの原因は非常にたくさんあり(ええと…このあたりから先は、このHP「バイオはパンドラ」の執筆者の一人、 がん研究のプロであるOK氏を前にしてちょっとビビりつつ書きますが…)、何も放射線(線量にもよりますが)だけが特別に危険、 というわけではありません。また、放射線が原因で出来たがんと他の原因で出来たがんとは区別がつきません。 さて、放射線以外にはどんな原因があるでしょうか。実はがんの原因の最たるものは食生活だそうです(そうですよねOKさん?)。 加熱調理で生じるタンパク質の変性物、食塩、高脂肪・高カロリー、それに何と野菜にも実は結構発がん物質として ノミネートされる物質が含まれているのです! ただ野菜(および果物)の場合、ビタミンや抗酸化物質も豊富に含まれていて、 トータルとしてはがんのリスクを下げる食物とのことですので安心してどんどんお召し上がりを。
 その他にはご存知タバコ、カビ、紫外線、アルコール、ピロリ菌(胃がん)、ウイルス、ストレス、遺伝的要因etc. と目白押し。 これじゃあ2人に1人ががんになっても不思議はない、というのはちょっと暴論かも知れませんが、 私達はこと「がんに罹る可能性」という点では放射線だけでなく、かくも多くの危険因子に曝されて生きている、 という事実も認識する必要があるように私は思いますがいかがでしょう (だからといって、放射線に無神経になれ、ということでは決してありませんが。)

 ところでこれらの因子はことごとく細胞の遺伝子を傷つけ、その傷は細胞が頑張って治そう(修復しよう)としますが、 ある確率で治し間違え(エラーを起こし)ます。その過程で私達すべてが持っている複数の 「がん関連遺伝子―ふだんは細胞の増殖の調節や細胞死に関わっている遺伝子」が突然変異を起こし、 これが不必要に働き過ぎたり、逆にまったく働かなくなったりして細胞の暴走的な増殖を許す ―つまりアクセルだけでブレーキのない車状態になる―というのが細胞がん化の第一歩と大まかに考えられていますが、 こんな細胞は私達の体の中で毎日数千個も生じているそうです。
 しかしこれだけでは私達はそう簡単にはがん(診断できる、病気としての)になりません。なぜでしょうか。 それは先にも言いましたが遺伝子の傷を治す(修復する)機構、ちゃんと修復し損なってがん細胞予備軍となった アブナイ細胞を自殺(アポトーシス)に追い込む機構が細胞に、さらにはそうした網をかいくぐってがん化してしまった細胞をよそ 者(異物)とみなしてこれを排除する免疫機能、といった“多重防御機構”が我々の体には備わっているからです。 それでもなお「2人に1人」ががんに罹るということは、そうした機構・機能は人の一生を通じて一定不変のものではなく、 加齢と共に衰える―言い換えればつまり、我々日本人はそれだけ長生きするようになった―ということに関係しているようです (OKさん、ホントですかぁ?)。

 ええ…これ以上この問題に深入りするとどんどんボロが出そうですのでこのくらいにしておきましょう。
 ともあれ人体影響も含めた福島原発の今後の行方、冷静かつ慎重に見守ってゆきたいと考える次第です …って随分強引な結論ですね。
 それではまた。
ミズバショウ(栂池高原にて)
ミズバショウ(栂池高原にて)

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その5―福島原発事故を考える3
2013/06/11

 この春、いやに暑かったり吐く息が白くなるほど寒かったりのデコボコ天気の果てに連休も終わったと思ったら いつになく早い梅雨に突入、とさらに思ったら今度はさっぱり雨が降らず、この夏の水は大丈夫かいな、 とちょっと心配になる今日この頃です。皆さんいかがお過ごしですか。
 まず私の連載を一昨年以来、サボり続けた(例によって…)ことをお詫びします。

 さて福島原発事故の後2年あまりが経ち、この間私自身も職業柄、環境放射線や農産物・工業製品などの放射能測定にも従事し、 またいくつかの団体から放射線の人体影響に関する解説を求められることもありました。 それらをこなしつつ、折に触れて知識の確認のためにさまざまな文献の他にインターネットを見る機会も数多くあったのですが、 そこで目にした膨大な記事・情報はまさに玉石混交、でした。そしてそれらの記事・情報を「科学的に妥当かどうか」 というものさしでみた時に痛感したのは、「科学的に妥当と思える記事は表現が抑えめで目立たず、明らかに間違った、 あるいは極端に偏った記事は断定的でよく目立ち、拡散速度も速い」という傾向でした。 ただでさえ放射線あるいは放射能に強い恐怖感を持つ日本人にとって、こうした断定的な記事(というより意見ですね)は 無批判に受け入れられやすく、その恐怖感をさらに膨張させたように私にはみえました。その結果とる人びとの行動が、 長い目で見て果たしてそのご本人に、あるいは社会全体にとって有益なのかどうかについても考えさせられました。

 そこでこのHP「バイオはパンドラ」に久々に拙文を公表するにあたり、 今回はネット空間を席巻したいくつかのキーワードまたはセンテンスを抽出し、その妥当性について考えてみたいと思います。

 最初にお断りしておきますが、私がこれからここに書く上で参考にしているのは、主としてICRP(国際放射線防護委員会)、 UNSCEAR(放射線影響に関する国連科学委員会)、WHO(世界保健機関)など、 放射線の影響や防護を含むさまざまな事柄に関するコメントや勧告を行っている国際機関、 国民に対して責任ある立場から情報を提供している(はずの)文部科学省や厚生労働省といった日本の省庁、 放射線医学総合研究所や放射線影響研究所あるいは国立がんセンター研究所など専門家集団を擁する国内研究機関、 大学で研究教育に従事している人のコメント(ブログなど)の中でその内容が適切であると判断されるもの、 またこれらすべてと“表裏一体”をなすものとして信頼度が高いと思われる専門雑誌(ざっと「著名雑誌」と言っておきましょう) に掲載された論文などです。そうそう教科書も、その記述が古すぎてその後変更が加えられているもの以外は手駒として使います。

 ところで“表裏一体”の意味とはつまり、上に挙げた国際機関の勧告なりコメントは、 放射線およびその影響に関する研究者として世界中から選ばれた科学者が複数集まり、 かなり長い時間をかけて主として「著名雑誌」に採択されたものを中心とした論文を精査した結果出されるものである、 ということです。そのような、いわば“ブランド雑誌”に掲載される論文とは、それがその雑誌に投稿された後、 ただちにそのコピーが編集者を通じて世界中の同じ専門分野の複数の研究者に送られ、 彼らによる厳しい「査読」という淘汰に曝され、これに耐えて生き残ったもの、なのです。 つまり投稿された論文がその雑誌の、いってみれば「格」に相応しく、 新規性もあって掲載に足るレベルの内容に達していると判断されなければ門前払い(不採択)、 また採択される場合でも多くの場合は加筆修正(書き直し)を何度か要求され(そのために新たな実験を実施し、 データを加えることだってあります)、書き直した結果が「要求レベルをクリヤーした」と判断されて ようやく採択・出版に漕ぎつけられるのです。ですからそのような雑誌に採択された論文の内容は、少なくともその時点では、 そうした査読制度のない(あるいはゆるい)雑誌に掲載された論文に較べて相対的に信頼度が高いと、 専門家の間ではみなされています。とはいえ無論、著名雑誌に掲載された論文だからといって、 その結論が常に正しいとは限りません。後に強力な反証が提示されてそれまでの定説がひっくり返る、 ということだってありえます。しかしそのような可能性も考慮に入れつつ、 この分野で世界に認められた科学者が複数集まって“精査”した果ての勧告なりコメントは、やはりそれなりの重みを持ち、 尊重に値するものと私は考えます。

 それでもこのような“権威の”機関の提供する情報を論拠にすると言うとたちまち、 「オマエは権威主義者か。だいたいそういう機関は所詮、原子力ムラの住民かその息のかかった連中が構成しているんだろ? そんなコメントが信用できるか」という声も聞こえてきそうです。ネットの中でもそうした意見を言う人は結構いて、 彼らはそのような(“権威機関”の立場に近い=専門家の間で最も支持されている見解に近い)発言をする日本の科学者に対し、 “御用学者”というレッテルを貼り付けて罵倒していました。強調しておきたいのですが私が知る限りの少なからぬそうした (“御用”のレッテルを貼られた)研究者は、権力におもねってうまい汁を吸おうなどと考える輩とは対極にいる、 純粋に科学者としての良心に従って客観的事実に基づき、自らの学問的識見を発信しただけであるということです。 加えてその人々の中には、本業で多忙を極めているにも関わらず足まめに被災地を訪れ、 放射線量を測定したりその正しい方法を住民に手ほどきする、住民と一緒に除染活動をする、 あるいは膝詰めで人々の話に耳を傾け、放射線の影響に関する客観的な情報を提供するなど、 現地の人々の心に寄り添って復興支援に積極的に関わってきた人もいます。
 一方「御用」と決めつける人達に「正義の」とか、「良心的」と祭り上げられる科学者や医師の記述なりコメントの中には、 「本当にこの人には科学の素養があるのか?」あるいは「これほどのステータスを誇る先生がこんなこと言っちゃっていいの?」 と思えるようなお粗末なものも少なからずあったことも付け加えたいと思います。 敢えて名前は出しませんが、今回のシリーズの具体的な項目の説明で、その内容に触れたいと思います。

 さらに言えばそのような決め付けをする人は自らきちんとした方法論に則って研究なり調査を実施し、 まとめた結果を、そのレベルを認められた専門雑誌に論文として投稿し採択された上で反論すべきではないでしょうか… と言いたいところですが、まあそれは誰にでも出来ることではない(高度な専門的トレーニングと多額〜莫大なお金が必要ですし…) でしょうからそこまでは言いません。でもせめてそうした雑誌なり記事から信頼に足る、反証になりうるような情報を探し出し、 客観的な事実に基づく反論を組み立てて世に問うくらいの努力はすべきでしょう。
 そのような根拠の裏打ちのない、無責任な決め付け発言は人びとの恐怖をいたずらに煽りたて、 結果的に被災地の復興の足を引っ張るのみならず、ただでさえ災害そのものに苦しんでいる人びとを さらに残酷な「差別」で追い詰める、さらには例えば高齢者などを不必要な避難に追い立てることにより 死に追いやることにさえ繋がりかねないからです。

 原爆被爆者やその子供が、いわれのない深刻な就職や結婚差別に遭った、また今回の事故でも、 福島から避難した子供が避難先で卑劣ないじめに遭った、あるいはタクシー乗車や医療機関にかかることを拒否された (ことに後者は医師にあるまじき行為)、といった事例が数多くあったという事実、さらにはチェルノブイリ事故の後、 ヨーロッパでは誤ったマスコミの報道や流言でパニックに陥った10万人〜20万人もの妊娠中の女性が、 まずその必要のない線量(0.001〜2mSv/年)であったにも拘わらず堕胎をしてしまった(IAEA:国際原子力機関の推定)、 という悲劇が起きてしまった事実を忘れるべきではないでしょう。
 無論どこかの国のように必要な情報を隠すのは論外ですが、誤った情報、あるいは故意に恐怖を煽るような流言は、 時として失われなくてもいい命を大量に失わせてしまう“犯罪”にさえなりうる、ということは肝に銘じたいと思います。

 サボっていた割には横道に逸れまくった上、随分と上から目線の挑発的な物言いじゃあございませんか? と言われそうですがその通りですね。ですがこの2年間、この問題に関する世の中の動きに私が心を痛めていたからこそ、 とご理解いただければ幸いです。
 途中で挫折しそうなバカ長い前置きに辟易された方も多いと思いますのでそろそろ本題に入りましょう。 思いつくままに次のような、恐らく皆さんもどこかで聞いた(見た)ことのある言葉、 フレーズについて考察を加えてみたいと思います。

○内部被ばくは特に怖い
○鼻血を出す子供が多発
○福島の子供が甲状腺がんを発症した
○福島原発職員が白血病を発症した
○今後汚染地域ではがんが激増し、バタバタ死ぬ
○福島では元気がない、疲れやすい人(子供)が激増
○低線量で心臓の組織が重大な損傷を受け、心筋梗塞を含む心疾患が増える
○チェルノブイリ膀胱がん
○チェルノブイリで汚染したある村では子供達の元気がなく不調を訴える子供が激増し、
 学校では体育の授業すらできなくなってしまったほど事態は深刻である。
○御用学者

 まだ他にもあると思います(途中で思いついたら新たに加えるものもあるかも知れません)が、 上に挙げたような言葉が私の目を引きました。
 いかがですか。これらがもしすべて真実だとしたら、本当に恐ろしいことです。 でも実際のところはどうなのでしょうか。一つずつ見ていきましょう。
 とはいえこれだけの数の項目について全部いちどきに書くと長くなりすぎますので、 何度かに分けた連載とさせていただきます。

○内部被ばくは特に怖い?
⇒ これは「被ばく線量は、線源からの距離の2乗に反比例する」という知識を逆手に取り、 「だから内部被ばくの場合、生体組織は線源に密着しているのでその接触部分とその近傍の線量はべらぼうに高く、 しかも代謝を通じて排出されない長半減期の核種ではそれが長く続く」と考えることから来ているようですが 事実はどうなのでしょうか。
 ICRPの日本人メンバーがまとめた「放射性物質による内部被ばくについて」と題する次の記事がありますので 一読をお勧めします。  http://www.jrias.or.jp/disaster/pdf/20110909-103902.pdf
 まず「はじめに」の所でICRPの歴史や基本的な考え方を紹介し、 次いで「2.福島事故にみられる内部被ばくの経路と放射性核種」、「3.内部被ばくの線量評価法」 「4.内部被ばくの健康影響」「5.おわりに」という構成になっており、 特にこの記事の核心部分である「4.内部被ばくの健康影響」では、 内部被ばくの主役的核種であるα線放出核種(これはほとんど事故原発の敷地外には出ていませんが) およびβ線放出核種が、体内に均等分布した場合と微粒子として局所に分布した場合のそれぞれについて、 実在するデータの検討と理論的考察を行っています。で、結論としては「内部被ばくの健康影響は、 それにあずかる核種がα線放出核種かβ線放出核種のいずれについても、 同じ線量の外部被ばくと比較して同等かあるいは低い傾向」です。 その詳細は本文をお読みいただく(A4にプリントして9ページとさして長くはないものの、全編を読み下すのは、 この分野に馴染みの薄い方にはちょっとご苦労かも知れませんが…ただこの「4.内部被ばくの健康影響」の部分は 実例の記載が多く、わかりやすいと思います)として、一言で言えば「内部被ばく、 特に難溶生の比放射能の高い粒子−いわゆるホット・パーティクル−の場合、 線源近傍のごく限られた領域の細胞は大線量を受けるのでがんリスクより細胞死が先行し、( 線源から離れた所では)放射線が当たらない細胞も増え、また当たったとしても線量率が低いので修復が効率よく機能し、 トータルとしてリスクは低くなる」というわけです。

 実際チェルノブイリ事故で飛散したヨウ素131の内部被ばくによる甲状腺がんの線量当たりのリスクと、 原爆被爆者のデータや医療用X線被ばくから推定される外部被ばくによるそのリスクは同等であり、 また動物実験でもヨウ素131による内部被ばくとX線を外部被ばくした場合とで甲状腺がんのリスクは 変わらなかったことがわかっています(大分看護科学大学 甲斐倫明博士「低線量放射線の健康リスク: 一般財団法人食品分析開発センターメールマガジンSUNATEC Vol.075(2012)、  http://www.mac.or.jp/mail/120601/01.shtml)。
 こうした事実から、「線量(実効線量:シーベルト)が同じなら、内部被ばく・外部被ばくに関わらず影響(リスク)は同じ」 という、ICRPはもとより国や放射線医学総合研究所など、おもだった研究機関の公式コメントに反映しているのですね。

○鼻血を出す子が多発?
⇒ 私が週末にいつも通う近所のテニスコートでも一時、「鼻血を出す子が増えているんだって」「そうそう怖いねえ」 といった会話が女性の間で沸騰していました。私はそれを聞き、「え?」と思ったのですが、 考えてみたらそもそも鼻血とはどんな原因で出るのか、実は私自身まったく知らなかったことに気づきました。 そこでネット検索をかけたところ、いや実にさまざまな原因で、 いとも簡単に出ることがわかりました(http://www.japa.org/kk_jyouhou/01/n0112/)。
歩きながらスマホに夢中になっていたら鼻から電柱に激突した、などという物理的衝撃で出ることはよく知られていますが、 その他にも血友病や白血病(これらは稀な病気です)、高血圧、肝硬変、循環器系の疾患、腎臓疾患、 副鼻腔や咽頭の腫瘍など多様な原因があるそうです。のぼせたり風邪をひいたりするだけでも出た、 というのは多くの人が経験しているところですしストレスも原因になるようです。 深刻な病気ではない場合、ほとんどは鼻の入り口付近にある、とても薄い粘膜の内側に毛細血管が密集している 「キーゼルバッハ部位(というのがあることも初めて知りました)」という、物理的衝撃に極めて脆弱な (だからすぐ出血する)部位が損傷することにより起こるとのことです。

 では放射線との関係はどうなのでしょうか。事故の後、いつもと違う不安気な様子を見せる親と一緒に、 あるいは別れて避難したり外で遊べないなどの行動の制約を受けたりと、 子供にとっては強いストレスがかかったと思われますのでこれ(ストレス)は候補といえそうです。 しかしこれが放射線そのものの影響かというとどうでしょう。 「恐ろしい原子炉事故が起きてしまったという事態の認識、およびこれに付随する生活の激変−例えば避難、 家族友人と離れ離れになるなど−に反応した現象」ではあっても放射線の直接的な“生物学的” 影響とは考えにくいのではないでしょうか。なぜなら「放射線で」出血するためには 「本人が放射線に被ばくしたことを知らなくても」血管壁が破れる、つまり血管を構成している細胞が損傷されるか、 出血を止める働きのある血小板が減る、あるいはこれが同時に起きる必要があるのですが、 毛細血管を構成する血管内皮細胞の平均致死線量が1.5Gy(→1500mSv)、 血小板が減少する線量が1 Gy(→1000mSv)位から(いずれもUNSCEAR 1988より)と、今回の被災地の、 仮に最も高いレベルの線量である年間数十mSvと比較しても大きな開きがあるからです。 しかもそれよりはるかに低い線量の東京でもそのような「報告」が相次いだのです。もう一つ、 子供が鼻血を出すこと自体は(嬉しくないことには違いありませんが)そう珍しいことではなく、 これまではあまり深刻に受け止めなかったが事故の後だとそのせいだとその子の親御さんは思いこんでしまう。 やはり最近鼻血を出した子を持つ別の親が「そういえばうちの子も」、と声を上げ、 風聞として「鼻血が多発」という話が瞬く間に拡散してしまうことは十分にありえます。 特に「ツイッター」やら「フェイスブック」といった交流ツールが普及したネット社会にあってはなおさらで、 その拡散速度も昔の比ではないでしょう。

 ちょっと横道にそれますが、自然界には時に、我々がある植物(例えばタンポポ)としてイメージしている 大きさや形とはかけ離れた姿の個体が出現することがあります。よく調べれば、 別に原発事故がなくてもそうした例は意外に見つかるものなのですが、何もなければ大多数の人はそれらにほとんど気付かず、 その多くは見落とされます。しかし「原発事故があった」という事実をきっかけに、 それら“異常”固体がやたら目につくようになる、ということはよくあります。 何もない時には「見えている」ものも多くの人は「見ていない」のです。
 福島原発事故以前にも巨大タンポポを見つけたという記事は存在します。  http://www12.plala.or.jp/nacyama/Environment.htm あるいは  http://nionoumikara.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-7694.html などですがいかがですか。 これが事故後で、環境放射線量が平常値よりわずかにでも高い土地であれば恐らく、 メディアやネット社会では「放射能汚染でお化けタンポポ!」などとセンセーショナルに扱われたことでしょう。 無論放射線で変異個体が増えることも事実ですが、それも線量とその生物(この場合はタンポポ)の放射線感受性次第なのです。
 恐らく「事故があった」という意識がそのような個体を無意識に「探させている」結果が多くの (といってもほとんど定量的調査をしているわけではない)目撃談に結び付いているのではないかと私は思っています。 「放射線の影響で巨大タンポポが増えた」ことが科学的に事実であるためには多数の個体を調査し、 その「頻度」がある地域で事故前より「統計的有意差をもって」増えた(ただし事故前のデータがなければこの検証は不可能)、 あるいは他の地域に較べて多い(ただしこの場合、 変異をもたらす放射線以外の要因が被ばく地域と非被ばく地域で同等であることが条件)、 そしてどちらも問題にしている地域の線量が事故以前より、あるいは対照地域より高く、さらに線量の増加に比例、 という事実がセットになっていることが必要なのです。

 ちょっとどころか大幅に脱線してしまいました。まあ今回の鼻血騒動をこのタンポポの話になぞらえるのは 少し強引かも知れませんが、ある変化あるいは変異ではないかと疑われるものが、 実は普段気付いていないだけの自然発生的な変異もしくは多様性に過ぎないのではないか、 あるいは変化(変異)があったとして、その本当の原因が放射線以外かも知れない、 という可能性についても頭から否定するのではなく、冷静に考えていただきたいとの思いから、敢えて採り上げました。 たとえば仮に、ある地域が強い変異原性を持つ化学物質に(それとは知られずに)汚染されていて、 そこがたまたま危険とは程遠いレベルの放射性物質に汚染された場合、 対応を誤るとタンポポだけの問題ではなくなってしまうというケースを考えればお分かりいただけると思います。 ちょっと例えは悪いですが、医療機関で誤診に遭い、見当外れの治療を施されてさらに深刻な状況に陥る、 という事態は誰でも避けたいです、ってまたまた脱線ですね。


 今回はここまでにし、最後に私がこの連休に家族と共に訪れた信州の「塩の道(戦国時代、 上杉謙信が武田信玄に塩を送るために使った千国街道→『敵に塩を送る』の言葉はこれに由来する…そうですが眉唾説もあり)」 の近くで撮った写真を、例によって貼り付けてしまいます。こんな景色がまだ日本には残っていたのですね。

 それではまた。
塩の道付近


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